太陽の光を反射してキラキラと光る水面。
ずっとずっと憧れていた景色をもっと堪能したくて、水を掬おうと手を伸ばした。

「あんま乗り出すと落ちちゃうよ?」
「だいじょーぶ」

もう片方の手でちゃんと掴まっているし、今日船に乗るために特訓までして泳げるようになったのだ。
そうでなければこんな所にはいられない。

「洋上に出るのは初めてと聞いたが、どうだ?」
「うん、すっっごいね!広いし綺麗!龍水くんはいつもこんな景色を見てきたの?」

いざ海の広さを目の当たりにすると単純な感想しか出てこなかったが、船頭に立つ彼は満足気に頷いた。

「海の顔は様々だ。貴様が想像する以上に荒れることもあれば穏やかな日もある。今日みたいにな」

海風に靡く龍水くんの髪もキラキラしていて、思わず見とれてしまう。
ぼーっとしていると、さっき落ちないようにと声をかけてくれたゲンくんがすかさず茶々を入れる。そういう雰囲気とかじゃないのに、なんだか照れくさい。手のひらですくった海水をゲンくんの方に飛ばしてやった。

「冷たっ!?名前ちゃんドイヒー!」
「ちょっと船の上で暴れないでよー?」

私の商売道具に何かあったらさすがに怒るからね!と言う南さんは、既にちょっとだけ怒っている。
彼女はどんな写真を撮ったんだろう。現像したら、ゆっくり眺めたい。


きれいな景色をたっぷりと楽しんで陸に近づくと、船を待っていてくれた子ども達や村の人が駆け寄ってきた。

「初めての航海はどうだった?」
「みんなのおかげで楽しめました。ありがとう」
「それでこそ私たちが泳ぎの特訓をした甲斐があったというものだ」

ずっと海の上の景色を見てみたかった。みんなと同じように海に出てみたい。だけど、水は怖い。そう溢したのを聞いていた羽京さんやコハクちゃんが、まずは水に慣れるという初歩的なところから今日船に乗れるようになるまでずっと、私の練習に付き合ってくれた。

「名前!喜びを分かち合うのは良いがいつまで乗ってる気だ?」
「あ、あれっ?」

龍水くんの言葉で周りを見ると、みんなもう船から降りているではないか。私だけずっと船の上でお喋りをしていたらしい。
できれば早く言って欲しかったけど「無粋だから」という理由で彼は待っていてくれたのかもしれない。

ヒュウ、と誰かが口笛を吹いた。
目の前で私に向かって手を伸ばしている龍水くん。手を取れ、ということなんだろうか。視線をあちこちさ迷わせていると、ちゃっかりカメラを構えた南さんから「ここはエスコートされといたら?」と笑われてしまった。

「龍水くん。私今まで船にも乗れなかったけど、今日は本当に楽しかった。初めての海がみんなと一緒で良かったよ」

操舵の上手い下手なんて素人の私には分からなくても、今日案内してくれたのが龍水くんで良かったと思う。
彼の手を取るとそのまま一気に引き寄せられて、私の足は再び地についた。

「いい表情だ。海に出たからか?それとも、初めての体験というものが貴様をそうするのか」
「……ん?」
「欲しくなった!」
「ん??」
「貴様の初めては、全部俺のものだ!!」

私の手を握ったまま、龍水くんは大勢の前で高らかにそう宣言した。
――と思ったら、ものすごい勢いで私は龍水くんから引き剥がされて、龍水くんも龍水くんで羽京さんやゲンくんに囲まれて何かを言われている。

「もーー何言い出すかと思えば……」

南さんやコハクちゃんに大丈夫かと心配されても、私はただ首を縦に振ることしかできなかった。
みんなの反応がそうであるように、はたから見ていたらなかなかとんでもない発言だ。でも龍水くんに限っては違う。そういう妙な安心感というのも、彼は持ち合わせている。

「だ、大丈夫だから、というかこれ騒いだ方が余計恥ずかしいやつだよー……」

努めて冷静に考えれば、彼の発言の意図は恐らく、これからもすごい景色を色々と見せてやるから任せておけ!ということだろう。彼の言葉が大袈裟なせいで、想像するのも烏滸がましいことまで一瞬頭を過ってしまう。

「あはは、でもやっぱりあれだけのことをあんな大きな声で言ったらみんなびっくりするよってことかな」

羽京さんのやんわりとした忠告でこの場は収まりそうだった。
だけど、龍水くんはなおも自信満々の顔で私の方を見ていた。

「フゥン、確かに名前だけに言うのなら雰囲気というものがある。だが俺が名前、貴様を欲しいという事実は少なくとも今ここにいる者には知ってもらわないと意味がない」
「……えっ」

今声を出したのは私じゃなくて、横にいる南さんだ。
私は声すらも出なかった。

「なーんかさっきよりすごいこと言っちゃってない?龍水ちゃん」
「君、今日はもうこの子に近寄るの禁止!女の子の純情をもてあそぶとか許さないからね!?」
「雰囲気とは……」
「あの男の言うことは単純なようで難解だが……私には牽制のように聞こえたぞ」

牽制。誰に?何に?
だめだ、今日はもう何も考えられない。千空くんに呼ばれているからとあっさりその場を立ち去った龍水くんを私たちは大人しく見送った。

「……よし、この後みんなで作戦会議!どうせならあの七海龍水を手玉に取れるような女にならなきゃね」
「ハ!賛成だ。このままおめおめと引き下がるわけにもいくまい?」

今日だけでも初めてのことが多過ぎて、右も左も分からなくなってしまった私は、何故か闘志を燃やしている二人にただついていくしかないのである。





「……ということがあってね、それで私、なんか龍水くんとうまく喋れなくなっちゃって」

暗い夜を照らす科学の灯りの下で平凡な一日の終わりの晩ご飯にしてはレベルが高すぎる料理を食べながら、その龍水くんという人に一番近しい人に私は悩み相談というものをしていた。
フランソワさんは龍水くんの執事で、彼がどんな人間でどうやって生きてきたかをよく知っている。

「執事という立場上、龍水様と名前様の間柄に出過ぎたことを申し上げるわけにはまいりませんが」

そう言いながらもフランソワさんの口元は緩やかに弧を描いている。

「そうですね、私から申し上げるとすれば……」

面と向かって、しかもあんな真っ直ぐに「欲しい」だなんて言われてしまっては、意識をするなという方が無理だった。いくら南さんやコハクちゃん、ルリさんや杠ちゃんやニッキーさんがああでもないこうでもないと作戦を練っても最後に実行しなければならないのは私。それなのに龍水くんに言うはずだった言葉はすっぽりと頭から抜け落ちてしまい、口をパクパクするしかない陸に上がった魚のようになってしまうのである。
周囲には真剣に心配され、時に憐れみの目を向けられ、挙げ句の果てには「お前が石化してどーすんだよ!」と陽さんやマグマさんに散々笑われて、でも彼らが言うとおりの情けない有り様を龍水くんには見せ続けていた。

「龍水様は欲しいと言ったものは必ず手に入れる。その為ならば手間も暇も決して惜しみません。龍水様が名前様を手に入れた暁には、名前様の魅力がより一層磨かれ、輝く事となるでしょう」

これが、執事の忠誠心というものか。アドバイスどころか逆に「ご覚悟召されよ」と釘を刺されたような気分である。

「嫌な訳じゃないんだ」

誰かに必要とされることは私にとってはあんまり馴染みがなかったけれど、擽ったくも嬉しかった。龍水くんのような、人の上に立つ人にこんな風に気にかけてもらえるなんて。

「まだちょっと荷が重いっていうか緊張とかもしちゃうけど、本当は私も龍水くんともっと話したい。もっと色んなこと、教えて欲しい」
「……左様ですか」
「うん」
「そうか。それを聞いて安心した」
「うわあっ」

突然後ろから聞こえてきた声に驚いて、椅子から転げ落ちそうになった。
一番聞かれたくない人が、そこには立っていた。フランソワさんは静かにグラスを拭いている。
大方、龍水くんが黙っているよう合図をしたのだろう。

「もしかして二人はグル……」
「いや、この状況を俺が利用したに過ぎん」

ごく自然な流れで私の隣に腰掛けた龍水くんの前に、飲み物が置かれた。

「フランソワ、彼女にはあれを」
「かしこまりました」

レストランが一気にバーのようになってしまった。
なんでも洋上カジノの野望を叶える為、こうして夜な夜な試作をしているらしい。いつか来るお披露目の際には、全て完璧に仕上げるのだと龍水くんは意気込んでいる。そんな二人の影の努力や研鑽を、私が覗いてしまって良いのだろうか。
何をどう切り出そうか迷っている私に、龍水くんは「見てみたいか?」と聞いた。そう聞かれたら、私の答えはもちろん「見てみたい!」になってしまう。

私には想像もできないような世界が海の向こうには広がっていて、この前やっと海の上に出られた私にとっては初めての連続に違いない。

「怖いなって思うこともあるよ……でも、龍水くんやみんなと一緒ならきっと大丈夫、かな」

お酒を飲んだわけでもないのに、後で恥ずかしくなりそうなことを言ってしまった。

「当然だ、名前の初めては全て俺のものになるのだからな。必ず貴様が望んだものを俺が見せてやる」
「うっ……あ、ありがとう……ございます…」

でも龍水くんの言ったことの方が何億倍も威力が高かった。彼の力強い言葉に耐えうる人間に、まずはならなければ。
タイミングを見計らったように出された飲み物は、既に完璧にできあがった新作らしい。

「いただきます」

龍水くんもフランソワさんも遠慮せずにと勧めてくれるものだから、その言葉に素直に甘えてしまおうかな。みんなよりも一足先にありつける特別感と少しの背徳感を、今夜はゆっくりと流し込んで味わうことにした。



2020.9.18 El dorado


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